くろんどの紹介

「くろんど」の言われ

 「くろんど」と言う呼び名はくろんど池に由来しています。今はくろんどは「黒添」と書きますが、くろんど池は平安時代嵯峨天皇の頃、蔵人(くろうど)職と呼ばれる貴族たちの別荘庭園として造られたと言われています。そして今では蔵人(くろうど)が訛って「くろんど」と呼ばれるようになりました。

 

蔵人とは、天皇の側周りの用をつとめる貴族の役職のことです。 

獅子窟寺

開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられています。奈良時代には聖武天皇(5代)の勅願を受けた僧「行基が堂塔を建て金剛般若窟と呼ばれました。平安時代には弘法大師空海もこの山で修法したと言われており、境内にある井戸は水の不便を考えて掘られたもので枯水したことがないと伝えられています。元和元年(1615年)大阪の役の時、獅子窟衆徒は大坂方に加勢すべく命じられましたが、従わず兵火のため全山が焼失しました。 後に一部再建されましたが、往時の1/10にも満たなかったそうです。

かいがけの道

   かいがけとは「峡崖」と書き、山と山の狭い間や崖に囲まれた所と言う意味です。

この道は昔から京都や大阪と奈良を結ぶ直越(ただごえ)道の一つで、時代とともに様々人が交ったと言われています。

  奈良時代

   東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師が奈良へ行くことになりましたが、一行は途中、枚方の百済寺や交野の獅子窟寺に宿泊し、かいがけ道を通って奈良の都に入ったと言われています。

 

  平安時代から鎌倉時代
 京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)詣でがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野に上がってかいがけの道を上り詰めて奈良に出て、王寺、五条を通って紀州へと向かいました。

 

  室町時代 
 くろんど園地から「かいがけの道」を下るとすぐに傍示(ほうじ)の里があります。ここには「伊丹」姓の家が多くあります。かつて摂津国伊丹城の城主伊丹兵庫守親興は室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦いましたが、宇治の槙島城が落とされ、親興は高槻芥川城に逃げ込みました。しかしこの城も織田方の荒木村重に落とされ、親興は討死しました。
残った「伊丹一族」は淀川を渡って交野の地に逃げ、一族はついに交野の寺村の竜王山の後ろにある「傍示の里」に逃れたのです。伊丹氏が傍示の里にやってきたのは天正元年(1573)のことだと言われていますが、今でも一族の落人としての暮らしを偲ばせるものとして、山の谷や森の中に「隠れ田」や「隠れ畑」がひっそりと残っています。

   傍示の里の風景は一幅の絵のようでハイカーの目を和ませてくれる所です。

伏拝み

    かいがけの道を下って行くと、所々に石碑があります。 これらは「伏(ふしおがみ)の石碑と呼ばれ、昔の人々の生活の知恵で本当はお寺にり、社殿にぬかづきお願いするのが本当なのですが、ここから遥拝することでご利益を頼み、お祈りしたもので、その方向の中心が「伏拝みの碑」です。

「柳谷伏拝」、「愛宕山大権現」、「石清水八幡宮」、「野崎観音」、「金比羅宮」などがあります。

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